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U-TURN

滋賀から日本へ。そして、世界中の若者の架け橋に。

職業
愛の伝道師×デザイナー
Uターンルート
滋賀→東京→滋賀
お名前
山中貴司さん
URL
TAKASHI DESIGN



今回お話をお伺いしたのは、滋賀県長浜市でブランディングの構築をベースとしたホームページの制作やDTPを行う TAKASHI DESIGNの山中貴司さん。山中さんが滋賀県を出たきっかけや戻ってきた理由、Webデザイナーを志した出来事からUターンを考えている方へのアドバイスまでたっぷりとお聞きしました。


見えなかった将来の道筋を見つけるために東京へ。


長浜で生まれ育った山中さん。高校卒業後、周りの友だちが進学や就職をしていく中、地元ではどうしても将来の道筋を見いだすことができませんでした。「ここで一生を過ごすのはどうなんだろう…」と考えていた山中さんは、音楽が好きだったこともあり、ギターケースとボストンバッグを持って東京へ向かうことに。

それこそ青春の18切符じゃないですけれど、鈍行で8時間ぐらいかけて行きました。たまたま降りたところが東京の池袋。当時流行っていたドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の影響もありましたね。今思い返せば若気の至りですよ(笑)。



「音楽で食べていきたい」と東京へ出た山中さんでしたが、繋がりがなかったこともあり、時間だけが過ぎていきました。しかし、生きていくためには働かなくてはいけません。当時住んでいた家から徒歩20秒くらいの距離にある空調屋さんで仕事を始めることに。現場に向かう車の中から景色を眺めたことで、東京の土地勘が身についたといいます。


賑やかで楽しかった東京。人がいるのに寂しかった東京。


そのまま二年ほど空調の仕事を続けていた山中さん。知り合いから「新しく代官山にお店をオープンするんだけど一緒にどう?」と声をかけられたことを機に、アパレルの世界に足を踏み入れることにしました。しかし、当時はファストファッションがだんだんと市民権を得るようになったころ。それに伴って不況という足音がコンコンと鳴り響くアパレル業界。そして東日本大震災の発生。

東京は賑やかで楽しい場所ですが、住みづらくもなってきて。当時は一人暮らしをしていたんですけど、壁を隔てた隣の部屋にはどんな人が住んでいるのかわからない。近所付き合いもほとんどなかったので、「人がいるのに寂しいな」というのはひしひしと感じていました。いつかは帰りたいという想いはありましたね。


「アパレルは東京でやっていても厳しい、それなら滋賀に帰ろう。」と考えた山中さん。アパレルに対する想いを捨てきれずに滋賀のセレクトショップで働くことに。直面したのは、滋賀の土地の難しさ。Tシャツ一万円という価格帯は、東京であれば通用しますが、同じようにはいきません。ただ、それでもファッションを嫌いになることはありませんでした。




Webデザインの道を志したのは、一冊の本がきっかけだった。


アパレルの道を諦めたころは、時間があったので本を読んでいました。本田直之さんの「ノマドライフ」という本に出会い、衝撃を受けたことを覚えています。簡単に言うと、日本、ハワイ、東南アジアとあちこちに行きながら、MacBook一台で仕事をする生き方。ぼくも一つのところで落ち着いて毎日同じことをできるタイプではないので、「こんな生き方いいなぁ」とすごく感化されました。


アパレルの仕事をやめた山中さんはまず、草津市にある職業訓練所に三ヶ月間通い、Webデザインやグラフィックツールの基礎的なことを学ぶことに。その後、地元にある制作会社に就職。実際にお客さんの悩みや目的をヒアリングする仕事を担当。

技術を上げることも大事ですけど、デザインを通してしたいことは問題解決。お客さんが抱えている悩みや課題を解決できるように、全部聞いて、持ち帰って整理して、洗い出して整理して、最終的に形にする。そこの部分は今ももちろん変わっていないので、自分の中では大きなバックボーンになっていると思っています。





成功の秘訣は継続すること。やめてしまったらそこで終わり。


大きな組織になると作業工程を一貫して見ることができる一方で、どうしても小回りが利かなくなることもあります。会社に勤めているあいだも、頭の片隅では「自分でやりたい」と思っていた山中さんは2年半後、独立。しかし独立して半年ほどは、ほとんど売上が立ちません。それでもくじけずに続けることができた理由を、山中さんは以下のように仰っています。

基本的によっぽどおかしなことをしていない限りはどこかで伸びる時期が来ると思います。おそらくほとんどの人は「半年やって全然売上立たなかったからやめよう!」と考えますけど、ぼくは「やめたら終わり」だと思っていたので。結果はどうであれ、続けようと思っていました。


参考リンク:TAKASHI DESIGN



滋賀から日本へ。そして、世界中の若者の架け橋に。


山中さんが学生のころの滋賀県のイメージは、「何もないところ」でした。しかしUターンした今、滋賀県に対する印象は大きく変わったと仰っています。

ぼくがいた当時は既に若い子はどこかに行ってしまう状態だったと思います。もちろん若かったから見えてなかったのもありますけど。ただもう一回こっちに帰ってきて思うのは、スポットが当たっていないだけで活躍している人がいるということ。基本的に地元で活躍されている人は地域のことをよく知っています。地元愛もすごく感じますし。ぼく自身も帰ってきて、実感した部分です。


地元にUターン。そして独立された山中さんに、これからの展望についてお聞きました。


30代では滋賀県というものを活性化できるような仕事がしたい。その先の40代では日本という視点で何か取り上げられるような仕事がしたい。それはもうWebだけでなくて、いろんな企画なんかにも携わったりもして。海外に行ってみて思ったのは、恵まれていない子がかなり多いんですよね。50代までにそういった子たちに自分が持ってるスキルやノウハウをどんどん教えて、それを使って将来職に就けるような橋渡しをしたいです。60代では若者の教育、「どうせ大人になってもな…」と悲観してしまっている人を一人でもなくしたいですね。

Webデザイナーを始めたい人に伝えたいこと。


最後に、山中さんにUターンを考えている方に伝えたいメッセージをお聞きしました。


東京と比べたら、滋賀は選択肢が圧倒的に少ないですよ。ただそういった中で、何か一つのことに価値を見出して、世界に発信したいと思っている人たちの熱量ってすごいものがあるんですよね。Webデザインに関して言えば、ずっと同じところで仕事をする必要もありません。固定観念に囚われて、ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない、というのもないので、周りの顔色を伺わずに自分の色を全面に出した方がいいと思います。自分のワークフローや働き方は、自分でいかほどにも決められます。ですので「Uターンしたらこうならないと!」と気張らずに気楽にやればいいと思います。



取材を終えての感想


「やめたら終わり。結果が出るまで続けよう」という言葉はとっても刺さりました。せっかく何かを始めてもすぐに結果が出なければやめてしまう人がほとんどなのだから、続けているだけでほとんどの人を出し抜けるんですね。全国の大学生に読んでほしい記事。


今回のライティング担当

八重樫邦彦
ブロガー
ルーツ:茨城県→滋賀県

立命館大学2回生。意識高めの大学生に向けた個人ブログ「がちろぐ」を運営しています。大学入学をきっかけに滋賀へ。それまでは「滋賀はほぼ琵琶湖」だと本気で思っていました。中学の頃のあだ名は「ひこにゃん」です。滋賀を移動するより京都に行く方が安いことに驚きを隠せずにいます。

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