国内外、移動しながら仕事がしたい。 滋賀が誇る伝承力とITの組み合わせによる可能性。
- 職業
- デザイナー
- Uターンルート
- 滋賀→大阪→滋賀
- お名前
- 立澤竜也さん
- URL
- Ryu-s Design
今回お話をお伺いしたのは、 Ryu-s Designの立澤竜也さん。2015年にオープンした「オリテ米原」をはじめとした地域のデザインに多数関わっておられます。
立澤さんが湖北地域を中心に、デザインに携わるようになった経緯とこれからのこと、そしてUターンを考えている方へのアドバイスをたっぷりお聞きしました!
様々な経験を積んだ後に踏み出したのは、自然栽培の道。
立澤さんが生まれた場所は、長浜駅のすぐ近く。自然の中というよりも、商店街やアーケードの中を遊び場とする環境で育ったそうです。そして高校卒業後は、大阪にある専門学校への進学を予定。しかし、予定変更を余儀なくされる出来事が起こりました。
母親が病気でなってしまい、急遽進学から就職に変更しました。当時から、デザイン関係の仕事に就きたいと思っていたため、学校に頼んで大阪での就職を探してもらうことに。最終的に、デザイン業から製版業などいろいろなことをやっている印刷屋さんに就職が決定しました。
製本や印刷、そして最終的には版下制作まで担当するようになった立澤さんは、4年後、別の理由から滋賀県へとUターン。デザイン会社ではなく一般の会社に就職し、生産管理を担当しました。
そこに持ちかけられたのは、ショットバーを始めることになったいとこの方からの誘い。手伝って欲しいと頼まれ、メニューやロゴづくりをすることになりました。
20年くらい前は、周りにデザイン業者がいない状態だったので、私も自分の仕事をどう表していいのかわかりませんでしたね(笑)。最初はバーと会社を掛け持ちしていましたが、体力的に辛くなって。仕事自体は嫌ではなかったので、バーの求人を出しましたが、いい人が見つからず、会社を退職しました。
輸入業から、チラシ作成の依頼を受け本格的にデザインの道へ。
バーが順調に繁盛する中で、次に立澤さんが考えたのは、空いた時間をどうするかということ。
元々アクセサリーへの関心が高かったこともあり、個人的にアクセサリーやパーツを海外に買い付けにいくようになったといいます。さらに、サーファーの人たちと一緒にインドネシアに行き、パーツを輸入するように。
さらに、当時は、アジアン雑貨が流行り出した時期でした。「家具を買い付けしてきて欲しい」等の依頼も舞い込み、現地に長期滞在しながら日本のアジアン雑貨店に家具を卸す日々が訪れます。
当時は、リーフレットやチラシがない時代。自分が好きだったこともあり、少しずつ作るようになりました。
彦根市の料理屋さんのチラシを作らせていただき、それを見た別の方が「うちのチラシも作ってもらいたい」と言ってきてくださって。
それから「新しいお店を出すから、色々手伝って欲しい」とオファーをいただいたことが、最初のきっかけでで今に至る感じですね。
グラフィックデザイナーとしてスタートした立澤さんですが、チラシの依頼主が、その延長戦上で「HPが欲しいんだけど、できる?」と言われたことを機に、勉強を開始。現在はグラフィック、WEBデザインと活動の幅が広がっています。
彦根市のまちおこし、歴女ブーム。農業とIT。全てが繋がり今に至る。
2006年、シャッター通りになっていた彦根市の花しょうぶ商店街。「何か面白いことができないか」と相談を受け、リサーチしていく中で、商店街の方々には歴史好きが多いと気付いた立澤さん。歴史を掘り下げ、戦国武将のTシャツをデザインするために勉強を始めました。
当初、年配の男性向けに作成した戦国Tシャツでしたが、1年後、歴女ブームが沸き起こります。ヤフートピックスにも掲載されたことで、1ヶ月300アクセスのネットショップが、1日3,000アクセスへと急増。Tシャツは、1ヶ月に300枚を超えて売れていきました。
ブームの始まりから終わりまでを全部見ました。今も歴史関係の仕事をたくさんいただいていて、これも滋賀県ならではだと思いますね。歴史は、景色などと同じ資産です。歴史関係の仕事で東京に行ったときも、出身地の話題になったときに「こういう武将のところですよね」と言うと相手も結構乗ってくれます。仲良くなれる、面白いツールです。
また、長浜には、輸入業をしていた頃に借りていた倉庫があったため、拠点として使い続けていました。運動不足になりがちなデザイン業。仲間と共に何か運動しようといった話をしたところ、農業を始めることに。さらに世話好きな地元の方からの教えもあり、技術も向上。
畑をしていたところ、隣にある建物を所有している方から「よかったら使う?」と言われ、服屋をやりたいと言われていた方と一緒に会社化しました。
ただ、ネットでいくらでも物が買える時代に、単なる服屋をしていても面白みがないですよね。絶対に体験が必要な時代です。服を買って貰ってポイントが貯まったら、トマトや玉ねぎを収穫して貰ったり、冬場には大根抜き放題を企画したり。カレーをふるまったこともあります。面白かったですよ。
米原駅前「隣町パーラー」の企画・デザインを経て、自分のやりたい道へ。
実は、服屋さんのオーナーは、現「隣町パーラー」のビルの持ち主。「何年間も空いたままになっていたため、何かできないか」と相談を受けた立澤さんが考えたのは、人に集まってもらえる仕組みが必要ということ。そして、一人でも来ることができる飲食店として、カフェやバーを併設したスペースが完成しました。
いろあわせの北川くんなど有能な若い人たちが出てきて、色々なことをやっている姿を見ていると、自分もその場所にいたいと思う反面、少し離れた場所から、同じような波を起こすことをやりたいなといった気持ちがありますね。
参考リンク:
滋賀県・ぶっちゃけーたー 北川雄士さんのUターン物語
“田舎には何もない”から“滋賀県っていいところ”への変化
立澤さんが学生の頃には、まだ地域おこしという言葉がありませんでした。
「こんなところにいたらダメだ」「田舎には何もないから、都会に出るべき」といった考え方も、特に珍しいものではない時代。都会から入って来るものをありがたく思い、消費する時代だったとも言えます。
ただ、今は個人個人が自分の気持ちの在り方について考え始めた印象を受けます。豊かさを表すものも、数値ではなく気持ちの部分が大きいかなと。例えば「滋賀県って“よく考えてみたら”すごくいいところ!」というセリフ。よく考えてみたらという言葉が挟まるようになったのは、ここ5年10年ではないでしょうか。
空気感を別にすれば、便利さを詰め合わせることは場所を問わず可能な時代です。情報の共有やインターネット通販も、当たり前となりました。しかし、それに収まりきらない物が、田舎にはあると立澤さんはいいます。
湖北には、特に滋賀県らしさが残っているのではないかと思います。そのひとつが、伝承する力。例えば、2、300年続く酒屋さん。でも、ただ事業を継いでいるだけなら、潰れてなくなっているでしょう。
引き継いで、カスタムして、時代に合わせてブラッシュアップしているから、現代まで残っている。鮒寿しだって、1,200年前からつくっているわけです。伝承力の強い人たちと、Uターンしてきた人たちとが、いい感じに混ざり合い、いいものが生まれているのではと思いますね。
滋賀県にUターン後、何かを始めたい人に伝えておきたいこと
最後に立澤さんへ、今、Uターンを考えている人に伝えたいメッセージをお聞きしました。
今は、インターネットもありますから、帰ってくるまでに自分のPRもできるし、情報も集められると思います。私が同じ立場なら、情報を集めたり、自分からこういうことがやりたいと情報を投げたりしますね。Uターン関係のセミナーなどは、マストではないかもしれませんが、参加することで情報をもらえます。帰って来た時をスタートにするのではなくて、ある程度つくってから帰ってくることは大事かなと。
ただ、食えなくなる世の中ではないですよね。何をやっても食べてはいける。仕事が100あって人間が100人いた時代から人の数は減っているので。それをうまく利用して、やりたいことをやってもいい時代かなと思います。
例えば二拠点で住んだりとか、できる人であれば移動しながら仕事をしたりとか、そういったことをもっともっとやればいいんじゃないですかね。飯は必ず食えるので、そして田舎の方が仕事もいっぱいあって豊かなので、ビビらずに帰って来てもらえればと思います。
取材を終えての感想
想像以上にデザイン業以外の経験業種が幅広い方で、驚きました。そしてすごく伝わってきたのが「移動しながら仕事をしたい」「国内や海外、東京や地方といった壁のない時代がきっと来る」との思いです。このあたりの熱量は、音声でぜひお聞きください!個人的には「何をやっても食べていける」の言葉に、背中を押して貰った気分です。
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